僕とオタと姫様の物語
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752 名前:70 ◆DyYEhjFjFU sage 投稿日:04/10/06(水) 00:09:15
汗をかいていた。
夕食を運んできてくれた彼女の気配で目覚めたとき布団の中は もう病人の匂いに湿っていた。
彼女は ぼくの胸に、冷たいひんやりとした指先を置き「ヒロかわいそう」と言った。
「ごめんね。今夜はずっといっしょにいてあげるね」と言った。
ごめんね、と謝るのは横須賀の夜のことかな、と思った。
そう聞いたとき、ぼくは彼女が横須賀を訪れたことをやっぱり ちっとも後悔してなくて、満足しているんだと確信した。
だからここにいるよ。
ヒロのそばにいるよ。
そんな意味かなと思った。
本意がつかめず、いぶかって姫様をみつめると、自然に目が合った。
優しげなのになんとなく怒ってる感じもする、カラコンでもないのに、うっすらとブラウンの混じった大きい瞳。ぼくの知らない風景をたくさん映してきたんだろうな。
渋谷の町はずれのドラム缶と焚き火に燃えあがる、いろんな欲望の光彩。虹彩に刻まれた残酷な風景。閉じることもかなわなかった。
姫様は そのぜんぶを受け止めるには若すぎたんだと思う。
すすり泣きと落胆。
そうやっていくつもの晩を過ごしてきたんだろうな。
いまでも帰る家すらない。
姫様はいつだって、家には帰りたくないと言った。
それを実行に移すために若い女の子がとれる選択肢はたぶん、いくつもない。
姫様の瞳の奥に眠る風景。
ネオンサインと、その明滅に沈む渋谷の街。
でも、よく考えてみろ。とぼくは自分に言った。
ぼくにしたところで、それは同じなんだ。ぼくだけが特別じゃないんだ。
ぼくは金を支払い、気の済むまで彼女を渋谷の夜の中に縛りつけようとしている。
753 名前:70 ◆DyYEhjFjFU sage 投稿日:04/10/06(水) 00:09:54
プラスチックの白いスプーンがやけに子供っぽく見えて姫様が それを手にしたとき、ぼくは自分で食べる。と言った。照れくさかった。
起きるのは面倒だったし、正直食欲はまったくなかった。
でも姫様がわざわざ作ってくれた雑炊なら、食べる。無理しても残さず食べる。
いつの間にかストーブに火が入れられていて、部屋は暖かだった。
彼女は ぼくが食べる横で どうやって作ったかとか、ちょっとした工夫があるとか母といろいろ話しをしたとか、とりとめのない話をした。
そのうち、興味が部屋に積まれたCDに向けられ そのうちの一枚を借りてってもいいかと訊いた。
ぼくは、ただ うんうんとだけ頷いた。
言葉を口にしようとすると咳になる。それに体が重かった。
それから雑炊が美味くて、食べてるうちに食欲が湧いてきたほどで そっちに集中してたせいもある。ぼくはサラダまできっちり平らげた。
ごちそうさま。手を合わせると彼女は喜んでくれた。
ベッドに横になって、目を閉じる。
彼女の指先を唇に感じた。形のいいネイルのさきっちょが、ぼくの口の上をかすめて踊る。
彼女は何かの歌を歌っていた。かすれるほど小さい声で。
そして歌いながら ぼくにこう訊いた。
「どこまで分かったの?」
フロッピィのことだと思った。すぐにそうだと分かった。
ぼくは何も言わなかった。実際理解できてることなんてひとつもない。だから答えることができなかった。
「ヒロ。お願いだから、ヒロからは見えないわたしを追いかけないでね。
そこで立ち止まってね。もうじき終わるから。
もうちょっとで ぜんぶ終わるから」
彼女はそう言って、ぼくのお腹のあたりに頭を重ねた。
もうちょっとで すべて終わる、と言った。
間違いなくそう言った。
ぼくは目を閉じたまま、何も答えなかった。
やっぱり重すぎる。
ほらみたことか、とオタの叫ぶ声が聞こえる。
あの夜は どのくらい巻き取られたんだろう。
ぼくらには あとどのくらいの時間が残されてるんだろう。
何も答えないまま、ぼくは眠りの中へ逃げこんだ。
彼女の声。それは細くて子守歌には ぴったりのやわらかさ。
ここにいるよ。
ヒロのそばにいるよ。
7 名前:70 ◆DyYEhjFjFU sage 投稿日:04/10/07(木) 14:35:07
8日朝。
子供の頃からずっと通いつけの主治医のいる病院。
彼女は待合室の平べったい長椅子に座っている。
茶色で合成皮革の長椅子は ところどころに穴があいていてガムテープで補強されている。何度となく見てきた この茶色の長椅子に座っていると、ほんとうに気が滅入る。
たぶん病院の陰鬱なイメージが刷りこまれてるんだろう。
主治医は高齢で真っ白い髭が自慢の、子供に優しい爺さんだった。
安静に。これが処方箋だった。
ぼくはこの言葉を受けとるために ここに来る。安静に。
この病院で2種類以上の薬を処方されることはまずなかった。だからぼくは この爺さんが気に入っている。
飲んでもいいし、飲まなくてもいい。爺さんは そう言ってるみたいだった。
問診と触診が終わって、シャツに手を通してると爺さんはぼくにこう言った。
「今日は あのお嬢さんといっしょにいなさい。そばにいて看病してもらいなさい」
ぼくが笑いながら、なぜです?と訪ねると爺さんはあっさりこう言ってのけた。
若い男の風邪の特効薬は、若い女性だ。
からかうようにぼくに言って、それが よほど可笑しかったのか声に出して笑った。
ぼくは小さかった頃、この爺さんに よく釣りに連れていってもらった。ペンキの剥げた小型トラックの荷台に乗って、海岸を目指すのが好きだった。
弟は釣りに熱中してたけど、ぼくは荷台に揺られる道中そのものが好きだった。
海岸線道路のコントラストの効いた強い日射し。蝉の声。ぼくの幼少の頃は平穏そのもの。
どこにいっても安全がもれなく無料でついてくる。大人たちが ゆるく張った監視の目から外に出ることのない毎日。
でも姫様は そうじゃなかった。
風邪に倒れたとき、姫様は ただ寝てるしかできなかったんじゃないだろうか。
ひょっとすると あのやしろのどこかに、ひっくり返って ただじっと天井の絵を眺めているしかできなかったんじゃないだろうか。
あの晩、彼女は目を閉じ、欠落した絵を克明に復元した。
ちいさな唇から漏れた言葉が、闇の中で結晶化して、美しかった絵の細部を浮かびあがらせた。
その記憶の正確さは、長いこと あの絵だけを見て過ごした証拠だ。
小さな女の子が、あのカビ臭い絵をそっくり記憶してしまうほどの動機ってなんだ?
いや、動機なんてたぶんない。不自然すぎる。そういう状態に追いこまれたんだ。
彼女は ただうずくまって、熱が去るのをじっと待っていた。
目を開けば天井の絵が視界いっぱいに広がる。
そのとき弟は、彼女の側にいて額に浮いた汗を拭ってあげたんだろうか。
8 名前:70 ◆DyYEhjFjFU sage 投稿日:04/10/07(木) 14:35:45
待合室に戻ると彼女の背中が見えた。
長椅子に ちょこんと座ってバッグをかき回していた。
ふり返る彼女。おかえり。よかったね、何事もなくて。
そう言った彼女の手には一枚のフロッピィが握られていた。プラスチックの透明なケースといっしょに。
彼女は別に悪びれた様子もなく、ぼくの目に黒い四角の板をちらつかせた。頭の近くでくるくると人差し指を巻く仕草。その指先には、彼女の細い髪が巻き取られていた。一本だけ。
彼女はフロッピィの磁気ディスクをガードする金属のシャッターをカチャと開いて いま引き抜いたばかりの自分の髪をシャッターのスリットに通し くるっとディスク本体に巻きつけた。
ライターを取りだして さっと炙る。
ぼくは笑った。
そういうことだったのか。
用心深い姫様。
フロッピィには封がほどこされてた。
あの目黒のホテルの暗がりの中では、とてもじゃないけど見えなかった。いや、ほかのどこの場所でだって気づかなかった。
べつにヒロを疑ったわけじゃないんだよ、と彼女は言った。このフロッピィは他にも数人の手を過ぎていくから。
フロッピィの封は脆い。慎重に扱わないと すぐにほどけて落ちる。
ブートなんてしようものなら誰かが中身を閲覧したとすぐにわかる。
ファイルの制作者は仲間すら信用していないってことか。
彼女は慎重にフロッピィを透明ケースに収めた。
今日は お家で寝てようね、と彼女は言った。
そのとき、ぼくはとうとう我慢ができなくなって彼女の手を握って座りこんだ。
どうしても訊いておきたかった。訊いておかなくちゃいけないと思った。
いまはいい。彼女が目の前にいるから。目の前にいれば安心感もある。
でも彼女のいない夜はどうだ?
ぼくはベッドの中でまんじりともできずに過ごすことになる。
きっとそうなる。そんなの絶対勘弁だ。
10 名前:70 ◆DyYEhjFjFU sage 投稿日:04/10/07(木) 14:36:54
「なあ、恵子。そのフロッピィが君を危険にさらしたりすることってあるのかな?」
彼女は ぼくが突然動いたために、驚いて椅子の上を滑って後退した。ぼくと彼女の距離が開く。
そのせいで お互いの握り合った手が吊り橋のようにぴんと張って、垂れた。
彼女は首を振った。
それから、絶対に そんなことはないと小声で言った。
「ありがとう。じゃあもうひとつだけ」
少し安心できた。
彼女が ぼくを気遣ってとっさに嘘を言ったのかもしれないけど だとすれば これ以上訊いたって無駄だ。
でも ぼくは安心することにした。そう信じることにした。
「あまり喋りたくないよ。ヒロ」
そうじゃないんだ。そういうことじゃない。ぼくはかぶりを振った。
「オタの、あ、えっと太田のアドレスってどうやって拾ったのかな」
彼女は ごめんね勝手に見ちゃって、と言ってからこう続けた。
ホテルに泊まってた夜。二日とか三日前。もっと前?いつだったかよくわかんない。
画像がPCに映ったままになってて、真っ黒で、それを閉じるとブラウザにメールボックスが表示されたままになってた。
明け方。ヒロはうとうとしていた。
彼女はPCに刺さったままのフロッピィには触れなかったと言った。たぶんヒロが そっと返してくれると思ってた。
あの目黒の夜から それは分かってた。
自分のたいした情報活動ぶりに情けなくなった。
ゴーリキーパークあたりに出演してたら きっと一番最初にヴォルガの流れに浮かぶ死体になっただろうな。
いろいろ訊いてごめん。とぼくは彼女の髪に触れた。
コーヒーでも飲んでいこう。会社にも連絡入れとかないと。
彼女は そのあと用事があると渋谷へ戻って行った。
彼女は いったいどこで荷物を取り替え、着替えをし、また綺麗になって戻ってくるんだろう。
毎日必ず戻ってゆく渋谷の街に何があるだろう。そんな疑問がいつも浮かんでは消える。
たいして重要じゃないことは分かってる。
質問することは禁じられた。
まあ、いいや。
女の子の言うことは いつだって正しい。正しくないときには喋らなくなる。
病院のまわりには、いまでも畑がちらほら残っている。
乗り捨てられた赤いバン。
そいつが病院の正面の畑の角に鎮座していて なぜこんなところで廃棄されたままになっているのか理由がわからない。
ガラスは全部取り除かれ、いまでは雑草の苗床になっててもしかすると春には風変わりなオブジェみたく見えるのかもしれない。
タンポポとかバターカップ。その他、名も知らない小さな花。
姫様の記憶も いつかこうなるときが来るんだろうか。色あせて ういういしくなるような。
・
今日書いてるときに流れていた曲
シャルロットマーティン/Charlotte Martin 「on yourshore」
キーン/Keane 「hopes and fears」
汗をかいていた。
夕食を運んできてくれた彼女の気配で目覚めたとき布団の中は もう病人の匂いに湿っていた。
彼女は ぼくの胸に、冷たいひんやりとした指先を置き「ヒロかわいそう」と言った。
「ごめんね。今夜はずっといっしょにいてあげるね」と言った。
ごめんね、と謝るのは横須賀の夜のことかな、と思った。
そう聞いたとき、ぼくは彼女が横須賀を訪れたことをやっぱり ちっとも後悔してなくて、満足しているんだと確信した。
だからここにいるよ。
ヒロのそばにいるよ。
そんな意味かなと思った。
本意がつかめず、いぶかって姫様をみつめると、自然に目が合った。
優しげなのになんとなく怒ってる感じもする、カラコンでもないのに、うっすらとブラウンの混じった大きい瞳。ぼくの知らない風景をたくさん映してきたんだろうな。
渋谷の町はずれのドラム缶と焚き火に燃えあがる、いろんな欲望の光彩。虹彩に刻まれた残酷な風景。閉じることもかなわなかった。
姫様は そのぜんぶを受け止めるには若すぎたんだと思う。
すすり泣きと落胆。
そうやっていくつもの晩を過ごしてきたんだろうな。
いまでも帰る家すらない。
姫様はいつだって、家には帰りたくないと言った。
それを実行に移すために若い女の子がとれる選択肢はたぶん、いくつもない。
姫様の瞳の奥に眠る風景。
ネオンサインと、その明滅に沈む渋谷の街。
でも、よく考えてみろ。とぼくは自分に言った。
ぼくにしたところで、それは同じなんだ。ぼくだけが特別じゃないんだ。
ぼくは金を支払い、気の済むまで彼女を渋谷の夜の中に縛りつけようとしている。
753 名前:70 ◆DyYEhjFjFU sage 投稿日:04/10/06(水) 00:09:54
プラスチックの白いスプーンがやけに子供っぽく見えて姫様が それを手にしたとき、ぼくは自分で食べる。と言った。照れくさかった。
起きるのは面倒だったし、正直食欲はまったくなかった。
でも姫様がわざわざ作ってくれた雑炊なら、食べる。無理しても残さず食べる。
いつの間にかストーブに火が入れられていて、部屋は暖かだった。
彼女は ぼくが食べる横で どうやって作ったかとか、ちょっとした工夫があるとか母といろいろ話しをしたとか、とりとめのない話をした。
そのうち、興味が部屋に積まれたCDに向けられ そのうちの一枚を借りてってもいいかと訊いた。
ぼくは、ただ うんうんとだけ頷いた。
言葉を口にしようとすると咳になる。それに体が重かった。
それから雑炊が美味くて、食べてるうちに食欲が湧いてきたほどで そっちに集中してたせいもある。ぼくはサラダまできっちり平らげた。
ごちそうさま。手を合わせると彼女は喜んでくれた。
ベッドに横になって、目を閉じる。
彼女の指先を唇に感じた。形のいいネイルのさきっちょが、ぼくの口の上をかすめて踊る。
彼女は何かの歌を歌っていた。かすれるほど小さい声で。
そして歌いながら ぼくにこう訊いた。
「どこまで分かったの?」
フロッピィのことだと思った。すぐにそうだと分かった。
ぼくは何も言わなかった。実際理解できてることなんてひとつもない。だから答えることができなかった。
「ヒロ。お願いだから、ヒロからは見えないわたしを追いかけないでね。
そこで立ち止まってね。もうじき終わるから。
もうちょっとで ぜんぶ終わるから」
彼女はそう言って、ぼくのお腹のあたりに頭を重ねた。
もうちょっとで すべて終わる、と言った。
間違いなくそう言った。
ぼくは目を閉じたまま、何も答えなかった。
やっぱり重すぎる。
ほらみたことか、とオタの叫ぶ声が聞こえる。
あの夜は どのくらい巻き取られたんだろう。
ぼくらには あとどのくらいの時間が残されてるんだろう。
何も答えないまま、ぼくは眠りの中へ逃げこんだ。
彼女の声。それは細くて子守歌には ぴったりのやわらかさ。
ここにいるよ。
ヒロのそばにいるよ。
7 名前:70 ◆DyYEhjFjFU sage 投稿日:04/10/07(木) 14:35:07
8日朝。
子供の頃からずっと通いつけの主治医のいる病院。
彼女は待合室の平べったい長椅子に座っている。
茶色で合成皮革の長椅子は ところどころに穴があいていてガムテープで補強されている。何度となく見てきた この茶色の長椅子に座っていると、ほんとうに気が滅入る。
たぶん病院の陰鬱なイメージが刷りこまれてるんだろう。
主治医は高齢で真っ白い髭が自慢の、子供に優しい爺さんだった。
安静に。これが処方箋だった。
ぼくはこの言葉を受けとるために ここに来る。安静に。
この病院で2種類以上の薬を処方されることはまずなかった。だからぼくは この爺さんが気に入っている。
飲んでもいいし、飲まなくてもいい。爺さんは そう言ってるみたいだった。
問診と触診が終わって、シャツに手を通してると爺さんはぼくにこう言った。
「今日は あのお嬢さんといっしょにいなさい。そばにいて看病してもらいなさい」
ぼくが笑いながら、なぜです?と訪ねると爺さんはあっさりこう言ってのけた。
若い男の風邪の特効薬は、若い女性だ。
からかうようにぼくに言って、それが よほど可笑しかったのか声に出して笑った。
ぼくは小さかった頃、この爺さんに よく釣りに連れていってもらった。ペンキの剥げた小型トラックの荷台に乗って、海岸を目指すのが好きだった。
弟は釣りに熱中してたけど、ぼくは荷台に揺られる道中そのものが好きだった。
海岸線道路のコントラストの効いた強い日射し。蝉の声。ぼくの幼少の頃は平穏そのもの。
どこにいっても安全がもれなく無料でついてくる。大人たちが ゆるく張った監視の目から外に出ることのない毎日。
でも姫様は そうじゃなかった。
風邪に倒れたとき、姫様は ただ寝てるしかできなかったんじゃないだろうか。
ひょっとすると あのやしろのどこかに、ひっくり返って ただじっと天井の絵を眺めているしかできなかったんじゃないだろうか。
あの晩、彼女は目を閉じ、欠落した絵を克明に復元した。
ちいさな唇から漏れた言葉が、闇の中で結晶化して、美しかった絵の細部を浮かびあがらせた。
その記憶の正確さは、長いこと あの絵だけを見て過ごした証拠だ。
小さな女の子が、あのカビ臭い絵をそっくり記憶してしまうほどの動機ってなんだ?
いや、動機なんてたぶんない。不自然すぎる。そういう状態に追いこまれたんだ。
彼女は ただうずくまって、熱が去るのをじっと待っていた。
目を開けば天井の絵が視界いっぱいに広がる。
そのとき弟は、彼女の側にいて額に浮いた汗を拭ってあげたんだろうか。
8 名前:70 ◆DyYEhjFjFU sage 投稿日:04/10/07(木) 14:35:45
待合室に戻ると彼女の背中が見えた。
長椅子に ちょこんと座ってバッグをかき回していた。
ふり返る彼女。おかえり。よかったね、何事もなくて。
そう言った彼女の手には一枚のフロッピィが握られていた。プラスチックの透明なケースといっしょに。
彼女は別に悪びれた様子もなく、ぼくの目に黒い四角の板をちらつかせた。頭の近くでくるくると人差し指を巻く仕草。その指先には、彼女の細い髪が巻き取られていた。一本だけ。
彼女はフロッピィの磁気ディスクをガードする金属のシャッターをカチャと開いて いま引き抜いたばかりの自分の髪をシャッターのスリットに通し くるっとディスク本体に巻きつけた。
ライターを取りだして さっと炙る。
ぼくは笑った。
そういうことだったのか。
用心深い姫様。
フロッピィには封がほどこされてた。
あの目黒のホテルの暗がりの中では、とてもじゃないけど見えなかった。いや、ほかのどこの場所でだって気づかなかった。
べつにヒロを疑ったわけじゃないんだよ、と彼女は言った。このフロッピィは他にも数人の手を過ぎていくから。
フロッピィの封は脆い。慎重に扱わないと すぐにほどけて落ちる。
ブートなんてしようものなら誰かが中身を閲覧したとすぐにわかる。
ファイルの制作者は仲間すら信用していないってことか。
彼女は慎重にフロッピィを透明ケースに収めた。
今日は お家で寝てようね、と彼女は言った。
そのとき、ぼくはとうとう我慢ができなくなって彼女の手を握って座りこんだ。
どうしても訊いておきたかった。訊いておかなくちゃいけないと思った。
いまはいい。彼女が目の前にいるから。目の前にいれば安心感もある。
でも彼女のいない夜はどうだ?
ぼくはベッドの中でまんじりともできずに過ごすことになる。
きっとそうなる。そんなの絶対勘弁だ。
10 名前:70 ◆DyYEhjFjFU sage 投稿日:04/10/07(木) 14:36:54
「なあ、恵子。そのフロッピィが君を危険にさらしたりすることってあるのかな?」
彼女は ぼくが突然動いたために、驚いて椅子の上を滑って後退した。ぼくと彼女の距離が開く。
そのせいで お互いの握り合った手が吊り橋のようにぴんと張って、垂れた。
彼女は首を振った。
それから、絶対に そんなことはないと小声で言った。
「ありがとう。じゃあもうひとつだけ」
少し安心できた。
彼女が ぼくを気遣ってとっさに嘘を言ったのかもしれないけど だとすれば これ以上訊いたって無駄だ。
でも ぼくは安心することにした。そう信じることにした。
「あまり喋りたくないよ。ヒロ」
そうじゃないんだ。そういうことじゃない。ぼくはかぶりを振った。
「オタの、あ、えっと太田のアドレスってどうやって拾ったのかな」
彼女は ごめんね勝手に見ちゃって、と言ってからこう続けた。
ホテルに泊まってた夜。二日とか三日前。もっと前?いつだったかよくわかんない。
画像がPCに映ったままになってて、真っ黒で、それを閉じるとブラウザにメールボックスが表示されたままになってた。
明け方。ヒロはうとうとしていた。
彼女はPCに刺さったままのフロッピィには触れなかったと言った。たぶんヒロが そっと返してくれると思ってた。
あの目黒の夜から それは分かってた。
自分のたいした情報活動ぶりに情けなくなった。
ゴーリキーパークあたりに出演してたら きっと一番最初にヴォルガの流れに浮かぶ死体になっただろうな。
いろいろ訊いてごめん。とぼくは彼女の髪に触れた。
コーヒーでも飲んでいこう。会社にも連絡入れとかないと。
彼女は そのあと用事があると渋谷へ戻って行った。
彼女は いったいどこで荷物を取り替え、着替えをし、また綺麗になって戻ってくるんだろう。
毎日必ず戻ってゆく渋谷の街に何があるだろう。そんな疑問がいつも浮かんでは消える。
たいして重要じゃないことは分かってる。
質問することは禁じられた。
まあ、いいや。
女の子の言うことは いつだって正しい。正しくないときには喋らなくなる。
病院のまわりには、いまでも畑がちらほら残っている。
乗り捨てられた赤いバン。
そいつが病院の正面の畑の角に鎮座していて なぜこんなところで廃棄されたままになっているのか理由がわからない。
ガラスは全部取り除かれ、いまでは雑草の苗床になっててもしかすると春には風変わりなオブジェみたく見えるのかもしれない。
タンポポとかバターカップ。その他、名も知らない小さな花。
姫様の記憶も いつかこうなるときが来るんだろうか。色あせて ういういしくなるような。
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今日書いてるときに流れていた曲
シャルロットマーティン/Charlotte Martin 「on yourshore」
キーン/Keane 「hopes and fears」
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