成都の武侯祠の武将像の画像をアップする
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23 :名無しさん@おーぷん :2014/12/09(火)13:03:20 ID:Ehe
諸葛亮もホウ統、同じところで勉強してたんとちゃうん?
ホウ統は何で戦略戦術を諸葛亮に教えてやらんかったんか疑問だなぁ
25 :名無しさん@おーぷん :2014/12/09(火)13:05:45 ID:HXU(主)
>>23
そうそう、小説では徐庶も水鏡先生のところで同門って事になってるね。
諸葛亮も知識では戦略戦術を知ってたと思うよ。
ただ実践できる才能が微妙だっただけじゃないかな。
教えられて誰でも実践できるのなら、高等教育受けた歴代の皇帝とかは皆用兵達者になるよね。
同じ頭脳明晰でも、諸葛亮は行政官向き、龐統は軍事向きだったんでしょう。
30 :名無しさん@おーぷん :2014/12/09(火)13:09:37 ID:Ehe
>>25
なるほどなぁ
勉強したであろうのに馬謖みたいなんも居るし、うまく扱えるかどうかは様々よなぁ〜
34 :名無しさん@おーぷん :2014/12/09(火)13:28:06 ID:HXU(主)
>>30
逆に無学でも天才的な用兵家はたくさんいたし、天性の才能の影響が大きいのかもね。
24 :名無しさん@おーぷん :2014/12/09(火)13:04:29 ID:IFD
なんか髭が画一的なんだが後の時代の人が後付けしたん?
27 :名無しさん@おーぷん :2014/12/09(火)13:06:34 ID:HXU(主)
>>24
武侯祠自体は唐の時代からできはじめらしいけど、時代時代に回収と拡張工事を受けてるから、今あるのは清朝の物がベースだと思う。
26 :名無しさん@おーぷん :2014/12/09(火)13:06:31 ID:wts
劉備の大耳がちゃんと再現されてるな
28 :名無しさん@おーぷん :2014/12/09(火)13:07:02 ID:HXU(主)
>>26
手ももっと長くするべきだった!
29 :名無しさん@おーぷん :2014/12/09(火)13:08:16 ID:wts
成都行ったん?
33 :名無しさん@おーぷん :2014/12/09(火)13:27:19 ID:HXU(主)
>>29
4年住んでた。
32 :名無しさん@おーぷん :2014/12/09(火)13:27:01 ID:HXU(主)
http://imgur.com/IYT8ZMw.jpg

馬超孟起
馬延の子孫と称する荒武者。
涼州で反乱と帰順というマッチポンプを繰り返していた馬騰の息子。
父親は弱った中央政府に独立をちらつかせて栄達した食えない奴だったが、その息子の馬超は本気で独立できると思ってしまったらしい。
更に曹操が漢中を狙って兵を動かしたのを、やましいところがある馬超は自分を討ちに来たと勘違い。
父と弟が中央にいるのに韓遂を誘って突如反乱!(当然父と弟は処刑される)
周辺の異民族には慕われていたため反乱に呼応する者も多く、一時は曹操を追い詰めるまでに至った。
しかし頭が足りない馬超は韓遂との仲を離間され、反乱はあえなく衰亡。
のこのこと兵をまとめて引き返してその後は潜伏。
それでも懲りない馬超は数年後に再起してまたまた反乱。
しかし楊阜らのガチの抵抗にあって、これはほとんど上手く行かずに張魯の元へ亡命。
その後、劉備の元へ流れ着き、最後は成都の劉璋をビビらせて終わり。
その後はフェードアウトで死亡。
一体馬超とは何だったのか?
35 :名無しさん@おーぷん :2014/12/09(火)13:31:58 ID:IFD
趙括とかいって超負けた奴も昔いたしね
37 :名無しさん@おーぷん :2014/12/09(火)13:37:52 ID:HXU(主)
>>35
そういう言葉遊びを聞くと、
彼女がオレのボウガチョウをころころと弄ぶと、オレのバチョウした
テツリキツがむくむくと大きくなる。ゴツトツコツ!といわんばかりに屹立した
オレのカコウボウはまさしくテイホウと呼ぶに相応しい。
彼女の舌がチョウギョクにゲンハクコと絡みつく。
そろそろか。
オレは立ち上がると彼女のジュンユウなマンチョウにチントウをソウショクする。
ガクシン、ギエン、ガクシン、ギエンとリズミカルに腰をふる。
彼女のホシツしたジュンウケイがカコウオンを奏で始める。
「シャ、シャマカになっちゃう!アカイナン!アカイナン!テイイク、テイイク、コウソンサァーーーンッッッ!!」
彼女はひときわ大きな声をあげる。そしてオレのチンブからはトウトヌとエキトクが迸り、ぐにゃりとロシュクする。
このコピペを思い出す。
36 :名無しさん@おーぷん :2014/12/09(火)13:34:50 ID:HXU(主)
http://imgur.com/Tb8qRGd.jpg

姜維伯約
蜀漢国後期の有力武将。
諸葛亮の二番弟子。劉備との直接面識はなし。
最初は魏の若き駿将として現われ、武で趙雲、智で諸葛亮の舌を巻く、そして諸葛亮に弟子入りを懇願される・・・というのは演義のお話。
実際は蜀軍の侵攻に太守が逃げてしまった城の友好の使者として蜀軍へ来ていたところで、蜀軍が撤退してしまったので そのまま蜀へ一緒に行くハメになっちゃったちょっとかわいそうな子。
その後 才能を認められ諸葛亮の弟子となる。
諸葛亮存命中はその手足となって働き、その死後は蔣琬の元で軍事に従事する。
蔣琬、費禕の亡き後は、軍事を一手に握り諸葛亮の意志を継ぐため北伐を続ける。
後期のホープだったが、度重なる遠征で結果的には国力を疲弊させてしまう。
劉備・諸葛亮の遺志を継ぎ最後まで魏と戦い抜くが衆寡敵せず剣閣関で涙しながら剣を折る。
蜀滅亡後もクーデターを起こすなど蜀復興に努めたが敗死。
判官びいきで日本でも人気がある。
38 :名無しさん@おーぷん :2014/12/09(火)13:48:58 ID:HXU(主)
http://imgur.com/JzUWPXg.jpg

左:馮習
蜀侵攻ぐらいから名前が見え始める武将。
その後の夷陵の戦いでは緒戦で活躍。
しかし陸遜にフルボッコにされて戦死。
なぜか彼が呉軍を侮っていたせいで蜀軍は負けたとかスケープゴートにされるかわいそうな人。
先生、夷陵の敗因は普通に劉備が呉軍を侮っていたせいだと思います!
右:張南
馮習と同時期に名前が出てきて同じ夷陵の戦いで死ぬのでよくセットにされる。
キャラを立てる前に死んでしまったかわいそうな人。
40 :名無しさん@おーぷん :2014/12/09(火)14:18:22 ID:HXU(主)
http://imgur.com/NFXcMgp.jpg

左:張嶷
万能無敵超人。
もっと早く生まれていれば張遼クラスの名声を得ていたかもしれない人。
世にでるきっかけは、自分の住む県城が山賊に襲われた時。
県令が家族や市民を置き去りにして逃亡した後、なんと張嶷は単身県令の妻子を守りながら白刃をふるって県城を脱出。
その噂を聞きつけた劉備に召しだされる。
最初はその出自からか山賊討伐などを命じられていたが、ゲリラ戦術を行う山賊を一網打尽にするため、偽りの和睦の宴会を開き、賊が集まったところをMINAGOROSHI!
騙したな!と罵る山賊に「外道お前らにそもそも道を説く資格などない」とあっさりRONPA!
その後は馬忠の副将として活躍し、羌族など異民族相手に連戦連勝。
その功績が認められて、異民族に占領されて南蛮天国になってしまった越嶲郡の太守に任じられて、これを実力奪取、周辺もあっさり平定。
しかしここでは飴と鞭を使い分けて異民族を上手に手懐け、蜀の国力増大に多大な貢献をした。
張嶷が後方を慰撫し続けていたので諸葛亮も姜維も北伐が続けられたのである。
晩年は歩行困難になったが、それでも姜維の北伐に従った。
知略で城を落としたりと相変わらずの活躍だったが、蜀が不利になると、倍以上の兵数を持つ敵将除質の部隊を道連れに戦死した。
蜀を支える屋台骨であったが、生まれる時代が違っていれば、中央でもっと大活躍したかもしれない人材である。
右:馬忠
上記の張嶷の元上司。
張嶷ほどの才能の煌きは感じさせないが、篤実な行政と確実な軍事行動で蜀の安定を支えた。
才能あるものを自由に活躍させる度量も持っていて、彼の下で育った将帥も多い。
蜀には数少ない教導型の将軍と言え、人材の育成と治安の維持に従事した。
41 :名無しさん@おーぷん :2014/12/09(火)14:27:16 ID:HXU(主)
http://imgur.com/3G093Eh.jpg

王平
王平だけど〜横柄じゃない♪
文盲の軍人。
最初は張魯のおまけで曹操に基準した異民族の付き人として曹操の下へ行く。
そこでなぜか気に入られ位を与えられていたが、劉備の漢中攻略戦の際に劉備陣営に降りその後は蜀軍の将軍となった。
諸葛亮支配下の教養重視主義の幕僚の中で、文盲であることを理由に軽視されていたが、街亭の戦いで活躍し名を挙げる。
その内容は、兵法に通じた諸葛亮一番弟子の馬謖の戦術を、無学な王平が実戦経験から諫め、その結果は馬謖は王平の指摘通りに失敗し、そして馬謖は唯一崩れず踏みとどまった王平に助けられ撤退したというものだった。
これによって王平は実戦は机の上でなくて現場で行われている事を証明した。
その後も特に防衛戦に実力を発揮し、蜀の国土を死ぬまで守りぬいた。
44 :名無しさん@おーぷん :2014/12/09(火)14:41:44 ID:HXU(主)
http://imgur.com/R1SUFRP.jpg

画像貼り間違えた!
これが王平です。
42 :名無しさん@おーぷん :2014/12/09(火)14:33:15 ID:HXU(主)
http://imgur.com/VAmIK7f.jpg

向寵
なんかキャラが立つほど目立った活躍はしてないけど、地味に名前が出てくる人。
夷陵の戦いの退却で功があったらしい。
あと、なんといっても出師の表で「善良、公平、軍事に精通!」と褒められているので有名。
43 :名無しさん@おーぷん :2014/12/09(火)14:39:20 ID:HXU(主)
http://imgur.com/iB4BPNi.jpg

廖化
ミスター蜀軍。
蜀漢国の興亡をその目で見届けた人。
劉備の荊州時代辺りから名前がちらほら見え始め、関羽指揮下で下積み時代を送る。
その後も地味に活躍をし続け、蜀の人材が枯渇するとともに一級線に出てくるようになる。
一軍の将になった後も地味に勝ち続け、安定した活躍を続けた。
晩年は姜維の国力を無視した北伐を非難したりと武闘派とは違う路線に。
蜀の降伏後、それを見届けるかのように病死した。
諸葛亮もホウ統、同じところで勉強してたんとちゃうん?
ホウ統は何で戦略戦術を諸葛亮に教えてやらんかったんか疑問だなぁ
25 :名無しさん@おーぷん :2014/12/09(火)13:05:45 ID:HXU(主)
>>23
そうそう、小説では徐庶も水鏡先生のところで同門って事になってるね。
諸葛亮も知識では戦略戦術を知ってたと思うよ。
ただ実践できる才能が微妙だっただけじゃないかな。
教えられて誰でも実践できるのなら、高等教育受けた歴代の皇帝とかは皆用兵達者になるよね。
同じ頭脳明晰でも、諸葛亮は行政官向き、龐統は軍事向きだったんでしょう。
30 :名無しさん@おーぷん :2014/12/09(火)13:09:37 ID:Ehe
>>25
なるほどなぁ
勉強したであろうのに馬謖みたいなんも居るし、うまく扱えるかどうかは様々よなぁ〜
34 :名無しさん@おーぷん :2014/12/09(火)13:28:06 ID:HXU(主)
>>30
逆に無学でも天才的な用兵家はたくさんいたし、天性の才能の影響が大きいのかもね。
24 :名無しさん@おーぷん :2014/12/09(火)13:04:29 ID:IFD
なんか髭が画一的なんだが後の時代の人が後付けしたん?
27 :名無しさん@おーぷん :2014/12/09(火)13:06:34 ID:HXU(主)
>>24
武侯祠自体は唐の時代からできはじめらしいけど、時代時代に回収と拡張工事を受けてるから、今あるのは清朝の物がベースだと思う。
26 :名無しさん@おーぷん :2014/12/09(火)13:06:31 ID:wts
劉備の大耳がちゃんと再現されてるな
28 :名無しさん@おーぷん :2014/12/09(火)13:07:02 ID:HXU(主)
>>26
手ももっと長くするべきだった!
29 :名無しさん@おーぷん :2014/12/09(火)13:08:16 ID:wts
成都行ったん?
33 :名無しさん@おーぷん :2014/12/09(火)13:27:19 ID:HXU(主)
>>29
4年住んでた。
32 :名無しさん@おーぷん :2014/12/09(火)13:27:01 ID:HXU(主)
http://imgur.com/IYT8ZMw.jpg

馬超孟起
馬延の子孫と称する荒武者。
涼州で反乱と帰順というマッチポンプを繰り返していた馬騰の息子。
父親は弱った中央政府に独立をちらつかせて栄達した食えない奴だったが、その息子の馬超は本気で独立できると思ってしまったらしい。
更に曹操が漢中を狙って兵を動かしたのを、やましいところがある馬超は自分を討ちに来たと勘違い。
父と弟が中央にいるのに韓遂を誘って突如反乱!(当然父と弟は処刑される)
周辺の異民族には慕われていたため反乱に呼応する者も多く、一時は曹操を追い詰めるまでに至った。
しかし頭が足りない馬超は韓遂との仲を離間され、反乱はあえなく衰亡。
のこのこと兵をまとめて引き返してその後は潜伏。
それでも懲りない馬超は数年後に再起してまたまた反乱。
しかし楊阜らのガチの抵抗にあって、これはほとんど上手く行かずに張魯の元へ亡命。
その後、劉備の元へ流れ着き、最後は成都の劉璋をビビらせて終わり。
その後はフェードアウトで死亡。
一体馬超とは何だったのか?
35 :名無しさん@おーぷん :2014/12/09(火)13:31:58 ID:IFD
趙括とかいって超負けた奴も昔いたしね
37 :名無しさん@おーぷん :2014/12/09(火)13:37:52 ID:HXU(主)
>>35
そういう言葉遊びを聞くと、
彼女がオレのボウガチョウをころころと弄ぶと、オレのバチョウした
テツリキツがむくむくと大きくなる。ゴツトツコツ!といわんばかりに屹立した
オレのカコウボウはまさしくテイホウと呼ぶに相応しい。
彼女の舌がチョウギョクにゲンハクコと絡みつく。
そろそろか。
オレは立ち上がると彼女のジュンユウなマンチョウにチントウをソウショクする。
ガクシン、ギエン、ガクシン、ギエンとリズミカルに腰をふる。
彼女のホシツしたジュンウケイがカコウオンを奏で始める。
「シャ、シャマカになっちゃう!アカイナン!アカイナン!テイイク、テイイク、コウソンサァーーーンッッッ!!」
彼女はひときわ大きな声をあげる。そしてオレのチンブからはトウトヌとエキトクが迸り、ぐにゃりとロシュクする。
このコピペを思い出す。
36 :名無しさん@おーぷん :2014/12/09(火)13:34:50 ID:HXU(主)
http://imgur.com/Tb8qRGd.jpg

姜維伯約
蜀漢国後期の有力武将。
諸葛亮の二番弟子。劉備との直接面識はなし。
最初は魏の若き駿将として現われ、武で趙雲、智で諸葛亮の舌を巻く、そして諸葛亮に弟子入りを懇願される・・・というのは演義のお話。
実際は蜀軍の侵攻に太守が逃げてしまった城の友好の使者として蜀軍へ来ていたところで、蜀軍が撤退してしまったので そのまま蜀へ一緒に行くハメになっちゃったちょっとかわいそうな子。
その後 才能を認められ諸葛亮の弟子となる。
諸葛亮存命中はその手足となって働き、その死後は蔣琬の元で軍事に従事する。
蔣琬、費禕の亡き後は、軍事を一手に握り諸葛亮の意志を継ぐため北伐を続ける。
後期のホープだったが、度重なる遠征で結果的には国力を疲弊させてしまう。
劉備・諸葛亮の遺志を継ぎ最後まで魏と戦い抜くが衆寡敵せず剣閣関で涙しながら剣を折る。
蜀滅亡後もクーデターを起こすなど蜀復興に努めたが敗死。
判官びいきで日本でも人気がある。
38 :名無しさん@おーぷん :2014/12/09(火)13:48:58 ID:HXU(主)
http://imgur.com/JzUWPXg.jpg

左:馮習
蜀侵攻ぐらいから名前が見え始める武将。
その後の夷陵の戦いでは緒戦で活躍。
しかし陸遜にフルボッコにされて戦死。
なぜか彼が呉軍を侮っていたせいで蜀軍は負けたとかスケープゴートにされるかわいそうな人。
先生、夷陵の敗因は普通に劉備が呉軍を侮っていたせいだと思います!
右:張南
馮習と同時期に名前が出てきて同じ夷陵の戦いで死ぬのでよくセットにされる。
キャラを立てる前に死んでしまったかわいそうな人。
40 :名無しさん@おーぷん :2014/12/09(火)14:18:22 ID:HXU(主)
http://imgur.com/NFXcMgp.jpg

左:張嶷
万能無敵超人。
もっと早く生まれていれば張遼クラスの名声を得ていたかもしれない人。
世にでるきっかけは、自分の住む県城が山賊に襲われた時。
県令が家族や市民を置き去りにして逃亡した後、なんと張嶷は単身県令の妻子を守りながら白刃をふるって県城を脱出。
その噂を聞きつけた劉備に召しだされる。
最初はその出自からか山賊討伐などを命じられていたが、ゲリラ戦術を行う山賊を一網打尽にするため、偽りの和睦の宴会を開き、賊が集まったところをMINAGOROSHI!
騙したな!と罵る山賊に「外道お前らにそもそも道を説く資格などない」とあっさりRONPA!
その後は馬忠の副将として活躍し、羌族など異民族相手に連戦連勝。
その功績が認められて、異民族に占領されて南蛮天国になってしまった越嶲郡の太守に任じられて、これを実力奪取、周辺もあっさり平定。
しかしここでは飴と鞭を使い分けて異民族を上手に手懐け、蜀の国力増大に多大な貢献をした。
張嶷が後方を慰撫し続けていたので諸葛亮も姜維も北伐が続けられたのである。
晩年は歩行困難になったが、それでも姜維の北伐に従った。
知略で城を落としたりと相変わらずの活躍だったが、蜀が不利になると、倍以上の兵数を持つ敵将除質の部隊を道連れに戦死した。
蜀を支える屋台骨であったが、生まれる時代が違っていれば、中央でもっと大活躍したかもしれない人材である。
右:馬忠
上記の張嶷の元上司。
張嶷ほどの才能の煌きは感じさせないが、篤実な行政と確実な軍事行動で蜀の安定を支えた。
才能あるものを自由に活躍させる度量も持っていて、彼の下で育った将帥も多い。
蜀には数少ない教導型の将軍と言え、人材の育成と治安の維持に従事した。
41 :名無しさん@おーぷん :2014/12/09(火)14:27:16 ID:HXU(主)
http://imgur.com/3G093Eh.jpg

王平
王平だけど〜横柄じゃない♪
文盲の軍人。
最初は張魯のおまけで曹操に基準した異民族の付き人として曹操の下へ行く。
そこでなぜか気に入られ位を与えられていたが、劉備の漢中攻略戦の際に劉備陣営に降りその後は蜀軍の将軍となった。
諸葛亮支配下の教養重視主義の幕僚の中で、文盲であることを理由に軽視されていたが、街亭の戦いで活躍し名を挙げる。
その内容は、兵法に通じた諸葛亮一番弟子の馬謖の戦術を、無学な王平が実戦経験から諫め、その結果は馬謖は王平の指摘通りに失敗し、そして馬謖は唯一崩れず踏みとどまった王平に助けられ撤退したというものだった。
これによって王平は実戦は机の上でなくて現場で行われている事を証明した。
その後も特に防衛戦に実力を発揮し、蜀の国土を死ぬまで守りぬいた。
44 :名無しさん@おーぷん :2014/12/09(火)14:41:44 ID:HXU(主)
http://imgur.com/R1SUFRP.jpg

画像貼り間違えた!
これが王平です。
42 :名無しさん@おーぷん :2014/12/09(火)14:33:15 ID:HXU(主)
http://imgur.com/VAmIK7f.jpg

向寵
なんかキャラが立つほど目立った活躍はしてないけど、地味に名前が出てくる人。
夷陵の戦いの退却で功があったらしい。
あと、なんといっても出師の表で「善良、公平、軍事に精通!」と褒められているので有名。
43 :名無しさん@おーぷん :2014/12/09(火)14:39:20 ID:HXU(主)
http://imgur.com/iB4BPNi.jpg

廖化
ミスター蜀軍。
蜀漢国の興亡をその目で見届けた人。
劉備の荊州時代辺りから名前がちらほら見え始め、関羽指揮下で下積み時代を送る。
その後も地味に活躍をし続け、蜀の人材が枯渇するとともに一級線に出てくるようになる。
一軍の将になった後も地味に勝ち続け、安定した活躍を続けた。
晩年は姜維の国力を無視した北伐を非難したりと武闘派とは違う路線に。
蜀の降伏後、それを見届けるかのように病死した。
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