喪失
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高く、細く、そしてしだいに興奮を強めながら、妻は啼いていました。
わたしは思わず、勇次の部屋のドアに手をかけました。
鍵はかかっていませんでした。
わたしはそろそろと部屋へ忍び込みました。
狭いアパートの一室です。
居間兼寝室は戸が開き放しでした。
妻がいました。
素裸で、四つん這いの格好で、ひっそりと中を窺うわたしに尻を向けています。
その尻に、これもまた全裸の勇次がとりつき、腰を激しく妻の尻に打ちつけています。
わたしはそれまでAVなど、ほとんど見たことがなく、したがって他人の性交を見た経験がありませんでした。
初めて見た妻と勇次のそれは、衝撃的でした。
勇次の腰が驚くほどの勢いで、妻の尻にぶつかるたび、ばこん、ばこん、と大きな音がします。
妻の、年増らしく、むっちりと肉ののった腹から尻にかけてが跳ねるように震え、
「あっ・・ああっ・・・」
と、妻が啼きます。
勇次の若い身体はよく締まっていて、スタミナがありそうでした。
室内は暑く、ふたりとも肌にびっしょりと汗をかきながら、わたしが入ってきたのにも気づかないほど、セックスに夢中になっていました。
その瞬間のわたしの気持ちを後になって考えてみると、それは深い哀しみでした。
もちろん、最愛の妻を奪われた哀しみもそうなのですが、それ以上に自分の老いが哀しかった。
いま、眼前で繰り広げられている妻と勇次の痴態。
それは強烈に<若さ>を放射していました。
勇次とわたしは親子ほど年が違います。
妻だって、わたしより一回りも若い。
どうもうまく言えませんが、妻と勇次のセックスを覗き見て、わたしが受けた哀しみは、老いた自分の手の届かない世界に妻が行ってしまったことへの哀しみだったように、いまになって感じるのです。
「そんなに大声出したら、近所に聞こえちゃうよ」
妻を責めながら、勇次がそんなことを言いました。
その口調は当然のことながら、雇用主の妻に対するものではありません。
「あっ、あっ、こ、こえ、でちゃいます・・」
「仕方ないな」
勇次は妻の秘所から自分のものを引き抜くと、軽々と妻を抱き上げました。
いわゆる駅弁スタイルというのでしょうか、子供が抱っこされるような格好でしがみついた妻に、勇次は立ったまま再び挿入します。
股間を大きく割り開かされ、M字になった足を勇次の背中へ絡みつかせた妻。
勇次はわたしに背を向けて立っていましたが、妻はそれとは逆向きです。
見つかるのをおそれて、わたしは半開きの戸からそっと顔を放しました。
いったい自分は何をしているんだろう。そうおもいました。
浮気の現場を押さえ、あまつさえ、妻たちは性交の最中なのです。夫なら、当然、怒鳴りこんでいく場面です。
しかし、わたしは、怒りよりもむしろ、とめどない喪失感に打ちのめされてしまっていたのです。
「んんっ」
妻がくぐもったような声で、また啼きました。
わたしはまたふたりをそっと覗き見ます。
勇次が、妻の口に舌を差し入れ、ディープ・キスをしていました。
妻は眉根を寄せ、苦しそうな表情で必死にそれにこたえています。
勇次が妻の身体を小刻みに上下動させています。
その上下動がしだいに早く、激しくなり、それにつれて、妻の表情にも苦悶とそれに悦びの入り混じった、わたしがそれまで見たことのない表情になっていきます。
妻が首を振って、勇次の舌を逃れました。
そのとき、妻の口からよだれがとろりと垂れたことを覚えています。
「あ、も、もうだめ・・・わたし、いきます・・いってしまいます」
息も絶え絶えに妻がそう告げます。
その瞬間でした。
わたしは弾かれたように、ふたりのいる部屋へ飛び込んでいきました。
「ひいぃー!」
そのとき、妻のあげた悲鳴はいまでも忘れられません。
妻は水揚げされた鯉のように跳ね回り、勇次から逃れると、床に突っ伏して、自分の衣服で顔を覆っています。
勇次もわたしにきづいた瞬間は驚愕し、しばし呆然としたようでした。
しかし、何を言っていいものやら分からず、口中でもがもが言いながら、睨みつけるだけのわたしを見て、勇次は落ち着きを取り戻したようでした。
そればかりか、勇次はにやにや笑いさえいました。
すでに平素の好青年ぶりはどこかへ行ってしまったようです。
「どうして分かったの?」
そんなことを聞いてきました。
わたしは答えず、さらに勇次の顔を睨み続けました。
「まあいいや。見たんだろ、いまのおれたちのセックス。なら分かるはずだ。おれたちの熱々ぶりがね」
「寛子はわたしの妻だ!」
わたしがやっと言えたのは、その一言だけでした。
それまですすり泣いていた寛子は、それを聞いて号泣し始めました。
「ごめんなさい・・あなた・・・ごめんなさい」
わたしは泣き伏して謝る妻の姿を見つめていました。不意に涙がぽろぽろと頬を伝っていくのを感じました。
勇次はそんなわたしたちを冷めた目で見ていましたが、
「とりあえず帰ってくれないか。あんたがおれと寛子のセックスを覗き見してたことは、まあ許すからさ」
わたしはその言葉を聞いて、愕然としました。
「・・許すだと・・・! よくもぬけぬけとそんなことが言えるものだ・・・おまえはわたしの妻を」
「寛子は、おれを愛してるんだ。あんたとはもう終わりだよ」
勇次はまったく動揺することもなく、そう言い放ちました。
その呆気に取られるほど傲慢な態度は、わたしには理解すら出来ません。
若さとは、若いということは、かくも尊大でエゴイスティックになりうるものなのでしょうか。
「・・どうなんだ、寛子」
わたしは押し殺した声で、妻にそう問いました。
全裸の妻は衣服を顔に押し当てたまま、ぶんぶんと首を左右に振りました。
「帰ります・・・あなたと」
その言葉を聞いて、わたしはちらりと勇次を見ましたが、彼はなおも動揺した様子は見せず、薄笑いを浮かべていました。
わたしは思わずカッとなって、勇次を殴りつけました。
勇次は素早く身をかわし、わたしの拳はほんの少し、かするくらいにしか当たりませんでした。
わたしがなおも殴りかかろうとするのを、いつの間にか這い寄ってきた妻がわたしの足にすがりついて、
「もうやめて・・・帰りますから」
「ならさっさと着替えろ!」
思わずわたしがそう怒鳴ると、妻はひどくおびえたように服を着始めました。
ふたりは家までの帰り道を無言で歩きました。
妻はすすり泣きをやめません。
わたしは最愛の妻に裏切られたというおもいを、また新たにしていました。
先ほど帰りがけに勇次がまた見せた陰湿な薄笑いが脳裏から離れません。
胃の腑から這い上がってくるような憤怒が、胸を灼いています。
<バイトはもちろんクビだ。それから・・・わたしはおまえのことを絶対に許さないからな>
帰り際にそう吐き捨てたわたしに、
<勝手にしなよ>
そう言って、勇次は笑ったのです。
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・・・その日、わたしが感じた様々な敗北感は、けっして埋められない喪失として、わたしの胸にぽっかりと穴をうがちました。
しかし、わたしは、それが始まりに過ぎなかったこと、
そしてその後、自分が本当に妻を<喪失>することになるとは、まだ夢にもおもっていなかったのです。
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妻の浮気現場に乗り込んでいった日の夜のことです。
わたしもようやく心の整理がつき、妻も少し落ち着いてきたようだったので、わたしは夫婦の寝室に妻を呼び、浮気の経緯を聞いてみることにしました。
パジャマ姿の妻は、きちんと床に正座して、首をうなだれさせています。
まるでお白州に引き出された罪人のような風情でした。
わたしは聞きました。
「はじまりはいつだったんだ?」
「・・・勇次くんを雇って一ヶ月くらい経った頃です・・」
「どんなことがあったんだ?」
「金曜に勤務を終えて勇次くんが帰ったあとに、彼が財布を忘れていったことに気がついたんです・・・
勇次くんは土、日はうちに来ませんし、電話がないから呼び出すこともできません。
わたしは、その日のうちに財布を彼のうちまで届けてあげようとおもったのです・・・」
若い男の住む家に女ひとりで行く無防備な妻を咎めようにも、わたし自身、勇次の人柄を信用しきっていたので、あまり文句も言えません。
「もちろん、財布を届けてすぐ帰るつもりでした・・・でも、そのとき・・・」
妻はうつむき、くちごもりました。わたしは黙って話が再開されるのを待ちました。
やがて妻は決心したのか、わたしの顔をまっすぐ見つめて話しだしました。
「玄関に出てきた勇次くんは財布を受け取ってから、わたしに部屋にあがって休んでいったらどうか、と言いました。
娘も家でひとりで待っていることですし、わたしは断って帰ろうとしました。
そのとき、勇次くんがわたしの腕を掴んで・・・」
<奥さんのことが好きなんだ>
そう言ったらしい。
妻は突然の告白に驚いたが、勇次はかまわず、妻をこんこんとかき口説いたという。
財布を忘れたのも、妻が届けに来るのを見越してわざとしたのだ、とまで言ったようだ。
最初は、呆気にとられた妻も、勇次があまり熱心に、額に汗まで浮かべて熱弁するのに、次第に心を動かされていった。
もともと好感を持っていた若者に、三十八歳の自分が女性として見られているということも、普段は妻として、母として扱われている妻にとっては刺激的なことだったのだ。
「正直に言います。
わたしはそのとき、困ったことになったとおもいました。
でも心の中では・・・疼くようなよろこびも感じていたんです・・・
久しぶりに女として自分を認めてもらったというおもいがあったのだとおもいます」
そう語る妻は真剣な表情をしていた。
「それでその日は・・・?」
「何もありませんでした。
わたしは彼を振りきって、家に帰ったのです。でも気持ちまでは・・。
わたしはその日、一睡もせずに、彼に言われたことや、そのとき自分が感じたことを思いかえしていました・・・
隣で寝ているあなたを見るたびに、こんな罪深い物思いはやめようとおもうのですが、気がつくと、また考えているのです」
わたしはそのとき、おもわず拳をぎゅっと握り締めていました。
「次の月曜に彼が店へやってきたとき、わたしはもうちゃんと彼の目を見ることもできませんでした・・・どぎまぎしてしまって・・・
でも、彼はまるで悠然としていて、勤務中もことあるごとにわたしに意味ありげな視線や言葉を投げてきました・・・」
「・・・勇次はこうおもっていたんじゃないか。この人妻は脈がある、もう少しでおとせる、とな」
怒気のこもった声で、わたしはそんな皮肉を言いました。
正直なところ、まるで恋した十代の女の子のように語る妻に、燃えるような嫉妬心をかきたてられていました。
「そうですね・・・そうだとおもいます・・・わたしが馬鹿だったんです・・・ごめんなさい」
「謝らなくてもいいから、先を続けてくれ」
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