喪失
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わたしは冷淡な口調でそう言いました。
妻は語ります。
「そんなふうに日を過ごしているうちに、わたしの心は次第に勇次くんの誘惑にはまっていきました。
あなたを、娘を裏切るまいとおもっているのに、店で勇次くんと一緒に過ごし、彼に愛の言葉を告げられているうちに、わたしは段々と、まるで自分が勇次くんと恋をしているような・・そんな錯覚に陥ってしまったのです」
「それは錯覚なのか? 寛子はそのとき、本当に勇次の奴が好きになっていたんじゃないのか?」
「そんなこと・・・」
妻は切なそうな表情でわたしを見つめ、首を振りました。
「まあいい・・・それで?」
「その週の金曜の勤務が終わって勇次くんは帰りがけに、<明日の昼、うちに来て>と囁いたのです。
わたしは拒絶しましたが、勇次くんは<絶対に来てよ>と重ねて言って、そのまま帰っていきました。
わたしはその夜、また悶々と考えて・・・悩んで・・・」
「勇次の家に行ったんだな」
「・・・そうです・・・本当にごめんなさい・・・」
妻の瞳は涙できらきらとひかっていました。
「・・・それで?」
「あなたに嘘をついて、勇次くんの家に行って・・・その日のうちに彼に抱かれました
・・・それからは・・ずるずると関係を続けることになってしまって
・・・・ごめんなさい」
「いちいち謝るんじゃない。謝るくらいならこんなこと、はじめからするな」
「・・すみません・・・謝るしかできなくて・・すみません・・」
「それはもういいと言ってるだろ!」
嫉妬でおかしくなろそうなわたしは、自棄になって妻に乱暴な口をきいてしまいます。
「それで奴とのセックスはどうだった? おれとよりも気持ちよかったのか?」
「そんなこと・・・」
妻は必死な顔で否定しますが、それはわたしの気分を少しも和らげませんでした。
「おれはお前と勇次のセックスを見ていたんだ・・驚いたよ。
おれは自分しか知らないからな、世の中にあんなに激しいセックスがあるのかとおもった。これじゃあ妻を寝取られても仕方ないとな。
そうおもわせるほど、あのときのお前の乱れ具合は凄かった」
「ちがいます・・・」
「何がちがうと言うんだ?」
わたしはどんどんサディスティックな気持ちになっていきました。
しばらくお互いに沈黙したあと、うっすらと涙の筋を頬につけた妻がぽつり、ぽつりと語り始めました。
「・・・彼に抱かれたときは・・わたしも驚いたんです・・・わたしがそれまで経験したことのないようなセックスで・・・荒々しくて・・・獣がするような感じで・・・。
彼のは・・・大きくて、わたしにはきついんです・・・きついのに激しくされて・・そうしているとわたしもいつの間にかおかしくなって・・・
声を出してしまうんです・・・」
普段の妻なら絶対に言わないような話でした。妻もここまできたなら、何もかも吐き出して楽になりたい、ということなのでしょうか。
「でも・・終わったあとは・・・いつも後ろめたくて・・・
あなたや娘のことばかり考えて・・・本当に自分がいやになります・・・
でも、あなたとのときは、心の底から満たされる感じなんです、本当です」
それならなんで勇次に抱かれ続けた、とわたしは叫びたくなるのをこらえました。
それからしばらくは緊張の日々が続きました。
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妻とは気軽に話すことはなくなりました。
娘がいるときは、以前のように仲の良い両親を演じるのですが、娘がいないと火が消えたように寒々とした感じになります。
わたしは仕事の関係で外回りをやめることは出来ません。
妻をひとりにしておくのは不安でした。
勇次はいまも店の近くに住んでいるのです。
しかし、新たにバイトを雇う気にもなれません。
わたしはいつもぴりぴりしていました。強がって見せても、心はいつも不安でいっぱいでした。
妻は、いっそう無口になり、暗い表情をするようになりました。いつもわたしの機嫌を窺って、びくびくしています。
以前からどこか淋しげな感じの女でしたが、最近では夜遅くにわたしがふと目覚めると、隣で妻がすすり泣いているときがあります。
夜の営みは絶えてなくなりました。
浮気した妻を嫌悪して、というより、わたしの問題です。
妻と勇次の情交の激しさにショックを受けて、わたしは自分自身のセックスにまったく自信をなくしてしまったのです。
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そんなある日のことでした。
わたしは妻と店番をしていました。
わたしたちは、夫婦で店を経営しているので、夫婦仲の思わしくないときも一緒にいる時間が長く、そのときはそれが辛くてたまりませんでした。
妻の哀しい顔を見ているのが辛いのです。
浮気をしたのは向こうだ、おれはわるくないとおもってみても、妻の辛そうな様子を見ていると罪悪感がわいて仕方ありません。
かといって、優しい言葉をかけることも当時のわたしには出来なかったのです。
その日もそんな状態で、もうたまらなくなったわたしは、
「なあ・・・おれたちもう駄目かもしれない・・」
妻にそう言ってしまいました。
妻は瞳を見開いてわたしを見つめました。すぐにその瞳から涙がすっと流れ落ちました。
「おれは辛くてたまらない・・・お前に裏切られたことも哀しかったが、その後のお前の辛そうな顔を見ているのはもっと辛いんだ・・・おれたちはもう、別れたほうがいいんじゃないかな」
離婚を切り出したのは、そのときがはじめてでした。
「そのほうがお互いにとっていいのかもしれない」
「いやです!」
予想以上に激しく、妻は拒絶しました。
「あなたと別れたくありません・・・
わたしにこんなことを言う資格がないのは分かってます・・・でも、あなたと別れたくないんです・・
これからは死んでもあなたを裏切ったりしません・・・
あなたのいうことならなんでもします・・・ですから・・」
「だから言ってるだろ!ちょうどいまのお前のように、お前が必死な顔をしていたり、哀しそうにしているのが耐えられないんだよ!」
わたしはきつい口調でそう言いました。
妻は、もうどうしようもなくなって、顔を両手で抑えて号泣し始めました。
罪悪感と自己嫌悪でいっぱいになったわたしは、妻から逃げるように店を出て行きました。
そうして店を出たわたしが向かったのは、勇次の家でした。
わたしたち夫婦を地獄に堕とした勇次になんとか復讐をしてやりたい。
その一念でした。
アパートに着きましたが、勇次は留守でした。
わたしは子供が出来てから、やめていた煙草を買ってきて、喫煙しながら、勇次の部屋の前で勇次が帰宅するのを待っていました。
そうしてわたしが煙草をふかしつつ立っていると、大家らしい老人がアパートの廊下を掃きにやってきました。
わたしを見て、
「あんた、そこの部屋のひとを待っているのかい?」
と聞きました。そうだと言うと、
「それなら須田君の知り合いなんだな。
まったく彼はどうなっているんだい。
若くて真面目そうな顔をしているくせに、しょっちゅう、昼間から女を連れ込んでいるよ」
わたしは無理に表情を殺して、老人に、
「へえ、そんなふうには見えなかったな。わたしも彼はよく知らないんだよ。相手の女性はどんな感じだい?」
老人は、にやにや下卑た笑みを浮かべると、わたしの近くに寄ってきて、小声で、
「それがねえ・・わたしも一、二度見ただけなんだが、これが品のいい奥様風の女でね・・年は四十より少し前かな・・・もしかしたら人妻かもしれんよ」
「へえ」
無関心を装った相槌を、半ば無意識に打ちながら、わたしの心臓は激しく高鳴っていました。
「人妻だとしたら、やはり不倫なんてのは女の方も燃えるものなのかね。
凄いんだよ・・・女の声が。
昼間だってのに、隣近所に聞こえるほど、あのときの声がするんだ」
わたしは手に持っていた煙草を口に含みました。自分の顔が真っ青になっているのが分かっていました。
「いきます、いきますー、ってね・・本当に激しいんだよ。須田君もなかなかやり手なんだね。枯れきっちまったわたしなんかからすると、うらやましいかぎりだよ」
老人はなおもしばらく話した後、自分の仕事に戻っていきました。
「あれ?」
物思いにふけっていたわたしは聞き覚えのある声に振り向きました。
勇次が立っていました。
「話がある」
わたしは勇次を睨みつけながら、それだけ言いました。
勇次はちょっと戸惑っていたようでしたが、無言で部屋の鍵を開け、わたしに入るように言いました。
部屋に入ると、勇次はわたしに座るように言い、コーヒーを作りにいきました。
わたしは部屋を眺めていました。
この前、妻と勇次が情交を行っていた部屋です。
そのときの光景がありありと蘇ってきて、わたしは苦いおもいをかみ締めました。
勇次が戻ってきて、コーヒーをわたしの前に置きました。
わたしはそれに手をつけずに、黙っています。
勇次のコーヒーをすする音だけが響いていました。
わたしはおもむろに口を開きました。
「お前のせいでうちは滅茶苦茶になってしまった・・わたしはお前を殺してやりたいよ」
勇次はコーヒーをテーブルに戻しました。そして、またあの癇にさわる薄笑いを浮かべて、
「へぇ」
と言いました。
「奥さんはどうしてるの?」
「お前に関係ない」
「関係なくはないでしょ、っていうか関係したし」
わたしは思わずカッとなって、手を出しそうになりましたが、なんとか自分を抑えました。
「お前はわたしの妻をたぶらかして、わたしの家庭を壊した。この責任は取ってもらうからな」
「裁判にでもかける気? でも浮気は奥さんと合意の上だよ。
誘いをかけたのは、おれかもしれないけど、無理強いしたわけじゃない。
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